昨日、親方に代わって柾組の仕事(大まかに言えば引出しや扉の部分の柾目を作る)を
やっていた時だった。
柾割り機という原始的な機械で、柾目の部分を作っていたら、ふと、修業時代も同じ事を
していたなと、ふいにを思い出してしまった。
私の修業時代は、高校を卒業して和歌山県にある桐たんすメーカーへ行った。
創業者、桑原松太郎さんの遺言で、本来は広島県に行くはずだったが、紹介していただいた
方の都合もあり、和歌山県になった。
その修業先でも、最初の仕事が、その柾割り機に柾を通して、柾を作っていく仕事だった。
その仕事は丸2年続けたので、久しぶりにやったという実感で、思わず修業時代に返ってしまった。
今、思い出しても過酷な修行時代だったような気がする。
仕事面ではなく、生活面で・・・
寝泊まりする場所は、倉庫の二階。
一階は、材料とたんすの倉庫。
その二階には六畳が二部屋と、5畳くらいの居間。
各部屋には、二段ベットが一台ずつ。
電気と水道のみ。ガスはない。
トイレはあったが、お風呂は社長の家にもらいにいく。
なんと言っても、食事が大変だった。
朝は、自分でパンでも買って食べ、お昼は会社で給食のお弁当。
そして、夜もお昼と同じ給食のお弁当が届く。
それを、仕事が終わったら食べる。
そんな生活が二年間続いた・・・
当然、体の調子はおかしく内科で検査。
結果は、栄養のが偏ってるだったかな、でも当時、慎重が165cm,
体重は38kgだった。
急遽、父が新潟からやって来たし・・・
結局、その後、退社して今の工房を継いだ。
でも、修業時代にはその工場の職人さんいは本当にお世話になった。
たくさんの事を教えてもらったし、お酒も覚えた。
使う材料や、作る形、仕上げ方法は、新潟とは違うが、いろんな面で
勉強になった。
休みの日には、大阪や神戸、京都にも遊びに行った。
だから、今でも関西は懐かしい。
昔から、「かわいい子には旅をさせろ」と言うが、世間に出る事って
大事だと思う。
いろんな仕事に就いたり、いろんな人に出会ったり、それがその後の糧に
なったり、後々、活きてくることもあったりする。
二年間という短い期間ではあったが、行って良かったと思う。
ふと、そんなことを仕事中に思い出してしまった。