2007年 2月 の投稿一覧

桑原家のルーツ。

   晴れ。     でも寒い・・・
三連休なので、いつもは寝ている時間なのに、
芋焼酎を飲みながら「情熱大陸」を見ていた。
今日の特集はパティシエ。
フランスのクープドモンド(お菓子界のオリンピック)での
挑戦だった。
結果は金メダル。
素晴らしいエンディングだった。
実は、私、この手のグルメ番組は以外と好きだ。
工場が休みの時は、以外と、この手の番組を見ることは多い。
なぜなのか?
実は、桑原家のルーツは料理人だった。
それは、桐たんす工房を創業した私の祖父である
桑原松太郎さんの父親が、素晴らしき料理人だったのだ。
ここだから言うが、明治天皇がここ加茂市に来たときに
その昼食を作ったと言われている。
その名は「桑原留治」
「四条流料理職」と墨で書かれた看板が今でも残る
桑原家のお宝だ。
私は、桑原家のルーツである「四条流」という料理の
流儀を以前から結構調べている。
でも、以外と出てこない。
この留治さんが、関わっていたとされる「かまぼこ屋さん」が
新潟市内にあった。
その名は「竹中」
私の記憶では、私が小学校のときにお正月になると
贈られてきた記憶がある。
その美味しさは、今でも覚えている。
小学生の私が、今でも覚えている味。
それ位の味は、想像を絶している。
でも、残念ながら今、竹中は存在しない。
私が知る桑原家のルーツは、四条流料理職である「桑原留治」
さんである。
ただし、料理人だけあって、かなりの酒豪だったらしい。
それを見ていた、息子の(私の祖父)松太郎さんは、
料理人だけは、嫌だったという。
でも、その恩恵は結構受けていたようだ。
聞いた話によれば(ホントかどうかは別)、新潟市内の
老舗料亭、行形亭の職人を務めていた時代は、
よく手作りの「ごま豆腐」を食べさせてくれたと、亡くなった
祖父(松太郎)から聞かされた。
そんな料理人の姿を見て、桐たんす職人から、独立し
桑原たんす店の創業に至ったのだが、
その孫や、ひ孫にも、料理人の血はどこかに
引き継がれているのだろうか?
料理の腕よりも、飲んべいの血は確実に受け継がれて
いるような気はする。
「四条流」に関する事で、お知りの方がありましたら、
是非とも、連絡をいただければ幸いです。

5年間の計画

     晴れ。    もう春だな。
昨日の話(昨日じゃなかった、その前だ)に引き続き、今日も
職人らしくない、経営的な話ですみません。
昨年から、桐の蔵の5年先の計画を立てている。
職人らしくないなぁ〜〜って思うかもしれないが、
一応、経営者なので・・・
でも、こう言う計画って、私、以外と好き。
この先、どうなるか分からないが、そのどうなるか分からない
計画を立てるのは自由だ。
だから、好き勝手な計画が立てられるし、誰にも迷惑は
かからない。
でも、私が立てた計画なので、そのとおり行かないと、
私が責任を取らなければいけない。
だから、好き勝手な計画は立てられるが、その責任も
伴う。
で、5年先の計画、ある方のアドバイスのもと、
計画を立ててきたが、どうも、私自身、ピンと来ないところがあった。
腹に落ちないと言うか、この計画で行く自身が湧いてこない。
それで、そのアドバイスしていただいた方に、申し訳ないが
少し待っていただく事にしてもらった。
何をするにも、やっぱり自身の考えで、言葉で、計画を
立てたい。
例え、それが無謀な計画であったとしても、その責任は
自分自身なのだから。
でも、この計画があるから、この先、桐の蔵の方向性と、
生き方が生まれるのだ。
何かの雑誌で読んだが、企業は(桐の蔵は企業ではないが)、
まず、生き残ることだ。
それがあって、お客様とのお付き合いも継続できる。
儲かる儲からないは、二の次であって、企業、会社は継続
していくことに意味があるのだと・・・
私も、三代目の後継ぎだ。
その後は、弟が継ぐと思うし、その後は、誰かに次いで
欲しいなぁーーーと、本心では思う。
それは、創業者である、桑原松太郎さんもそう、思って
いるだろう。
話が、飛んでしまったが、これから5年先の計画は、
今のこの激動の時代、とっても大事だと感じている。
常に、5年先を見ている職人になりたい。
経営者という、職人に・・・・・